Archive for the ‘freedom article’ Category
11/12 Milano men’s collection
11/12秋冬メンズが始まった。今回は自分も服を作り始めているというところで見方も変わってくるのかな。
ミラノで言えばバーバリーのWEBの使い方やサラ・バートンのアレキサンダー・マックイーンあたりに注目したい。
パリはやっぱり「ミュグレー バイ ニコラ フォルミケッティ」とマルジェラのランウェイあたり。
チェックが大変だけど、資本になるのでやりきりますよ。
the final media DOMMUNE
念願の初Dommune現場。
友人が進めているプロジェクトの参考として、どうしてもDommuneのコンテンツ作りを体感しておかないと、ということで同行。
画面や紙を通して見るよりも、実際の目で見て感じるほうが100倍ためになる。自分の世界の中で妄想するのは誰でもできるし、いつでも「逃げられる」状況は何かアクションを起こすときにはほとんど役立たない。そういう考え方が友人と一致しているので話と行動は早い。無謀ながら会社帰りに直行。
青山二丁目から渋谷まで歩く。その途中でブレストしつつ、そのプロジェクトをどういう風に展開していけば成り立つかと思索。こういうのが楽しい。
実際の現場は「コンテンツ」として成立させるための全てにおいて無駄が無かった。音、スペース、映像(ビジュアル)、人。
前々から、どうして誰もDommuneと同じことをしないのか不思議に思っていた。少なくともClubカルチャーが根深い外国に同じようなことをする人がいてもいいのに、と。
でも、現場を見て何となく真似しない意味が分かった。ここまでの完成度に持ってくる=コンテンツとして成立させる、ためにこちらの想像の何段階も上をいく考えや努力が落とし込まれていた。
そこに圧倒された俺と友人。帰り道はただただ次の一歩に進むために必要なことを考えてた。へたな手を打つ前に体感しておいてよかった。
ISSEY MIYAKE 「REALITY LAB 再生・再創造」
昨年の記事になるのだか、書きかけたまま放置していたので再アップということで(アップ時:2011.1.23)。
「REALITY LAB 再生・再創造」に行ってきた。
やはりメインは「132 5. ISSEY MIYAKE」。久しぶりに日本に生まれてよかったと思えたな、何か。
技術力や熱意を持った日本のモノづくりに関わる人。低コスト化で生産拠点が海外に移っていき、国内のモノづくりの現場が衰退していく中、その現状を再度見直し、未来につなげていこうというプロジェクト「132 5」。
「132 5」。これは…
1→1枚の布
3→3次元の立体(衣服)
2→2次元の布に戻る。
5→5次元(時間や空間)
を表す。
最後の5の持つ意味。日本のモノづくりを遠い未来(5次元)にまで受け継がないといけないというイッセイ・ミヤケの強い意志を感じずにいられない。
このプロジェクトで生まれたドレス。日本のモノづくりの技術が凝縮されている。感動した。
swam
「こうして私はゴッホになった」を見てきた。久しぶりに音声ガイドも借りつつ、じっくりと二時間半ちかく。
人生の出来事に沿って展示されている彼の絵。その時期に起きたこととうまくリンクさせていて分かりやすい。
ありがちな方法だけど、ゴッホのような質の絵を描く芸術家の展覧会はこの展示方法が見ていて一番面白い。どのような事がどう影響を与え、それが作品にどう表れるのかが手に取るように分かる。
個人的に彼の絵の一番好きなところは「色彩」。日本人には無い感覚で配置される色、色、色、色。そこに精神性とその時の感情が凝縮されているのが分かる。
一つのものへの執着心の強さ。見習いたい部分だ。
同時に、彼の絵の変遷を辿っていくと「自分らしさ」を手法というレベルで固執しなくていいことが分かる。自分も含め「自分らしさ」を手法でしか表現できない人間が増えている。こういうテイストやこうゆう処理の仕方という手法レベルの話ではなく、自分の精神性や想いを表現したものはどんなものであれ「自分らしさ」の結果なのだということを教えてくれる。
LANVIN for H&M
LANVIN for H&Mが発売開始。
シルエットや素材使いは本当にLANVINそのものでクオリティも高い。
今回のコラボレーションはかなり露出も多くて、テレビCMなんかもやってたりするし、これまで以上に力が入っている印象。
LANVINのようなラグジュアリーブランドを着るシーンは限られている。今回もドレスなどパーティーを見越したアイテムが多い。これを日本人はどういう風に着るのか興味がある。LANVINというブランドを理解してパーティーや結婚式のみ用に着るのか、話題性という部分に乗っかって普段着として着るのか。ストリートに落とし込むような着崩しをする人も出てくるかもしれない。そういうところが日本っぽくて良いところでもあるけど、恥ずかしいところでもある。
認
2回目の佐藤雅彦の「“これも自分と認めざるえない”展」に行ってきた。
佐藤雅彦はピタゴラスイッチで有名な人(他にも「バザールでゴザール」とか「ポリンキー」とかのCMも手がけている)。
今回の展覧会は、ピタゴラスイッチが持っているような「装置自体」の面白さはもちろん、その「装置」が「自分が自分であること」を違った切り口で明らかにしてくれるというところに面白さがあった。
会場入場時に自分の身長や体重、網膜認識、宙に星の形を描く筆線などを登録。さまざまな装置がそのデータをもとに「自分」導き出す。
穴をのぞくと網膜認識からディスプレイに登録した自分の名前と網膜判別の記号が表示されたり、Wiiのコントローラーのようなものを持って宙に星を描くと、同じように「あなたは○○さんです」と自分が導き出されりする。
かなりの確率で自分の登録した名前がディスプレイに表示されるが、これで自分の名前が出なかったらどうしようという緊張感も味わえる。
自分が自分であることは自分が最も強く認識しているはずだが、それを上回るテクノロジーという説得性に断言されると、自分が自分であることに奇妙な不安感を覚える。装置は「自分ではない」と示すのではなく、「あなたは○○です」と会場に来ている違う人の名前を表示する。ここが今回の展覧会のミソのような気がする。
自分を否定されているわけではなく、代替としての他人を与えられる。否定されると「自分を認める」という行為は発生しないが、誰か違う人が代替として与えられるので「これも自分と認めざるをえない」のだ。
普段なかなか触れることの出来ない特殊な「装置」。そのテクノロジーの力に「自分」を委ねてしまう。自分が自分であるという説得性をいとも簡単に奪われてしまうような「人」と「装置(テクノロジー)」の関係性の構図は、非常に現代的と言えるかもしれない。













