nature
森美術館で行われているネイチャーセンス展に行って来た。吉岡徳仁、篠田太郎、栗林 隆の3人が日本の自然知覚力を考えたインスタレーション作品が並ぶこの展覧会。
今年行ったインスタレーション系の展覧会で、かなり上位に入る出来だったかもしれない。
何が良かったかというと、自然の捉え方とその表現手法。
この展覧会を見に行く前に自分なりにテーマである日本人の自然知覚力ってものを考えてみたけど、かなり安易というか日本人じゃなくてもそれを自然だと認識できるダイレクトな表現方法しか思い浮かばなかった。
そんな状態で行ったものだから、彼らの想像力と表現方法にあっさり屈服させられた感じ。
自分が日本で住んでいることをはっきりと意識して生活している証拠なんだろう。「気づき」というもの、日本人というアイデンティティの捉え方というか。日本人であることへの劣等感を抱いている人も多いと思うけど、彼らは少なくともその劣等感以上に「日本人だからできる特別なこと」に気づいているんだろうと思う。
photolio
東京写真美術館で開催している「ジャンルー・シーフ写真展」に行ってきた。
基本的にファッション写真が好きだけど、ジャンルー・シーフの作品はとくに自分好みのものが多かったように思う。と言っても、何が「自分好み」な写真なのかははっきりしないんだけど、ありがちな構図でも写真自身がかもし出す空気感がとにかく素晴らしかった。
時代性を一つとっても、当時のモードにまったく古さを感じさせないのは、今のモードで再燃してる80’sなんかの流れもあるかもしれない。そういう意味で、今まさにジャンルー・シーフ写真展をやるということが正解なのだと納得させられる。
ファッション写真が何か、ということをつきつめるのは難しい。ファッションスナップとどう違うのか、という点で考えても分からない。だけど、非常に魅力的なものであることには違いなくて、何らかのかたちで自分に訴えかけてくるものがあるのが不思議。
Zama
本気で服を作り始めた。パターンから引き始めるが、まずパターン用紙のどっちが表裏か分からない。そこを調べるところから始まった。
本当に何気なく買われている「服」だけど、製造工程をスルーしすぎだな、と。俺も世の中も。
服作りを始めて「自分自身の体との対話」みたいな、よく分からないものが生まれたような気がする。
腕まわりや胴まわりなんか、自分自身の体のことなのにまったく知らない。足が太いとか、背が低いとかそういうことに執着する人はいるが、なぜMやSサイズの服が自分にぴったりなのかということに執着する人はいない。袖を腕が通るという当たり前のことにもしっかりと計算された服作りのプロセスがある。これは服を実際に作ってみないと絶対に生まれてこない思考だろう。
なぜ自分が服を作り始めたのか。
それは世の中に良い服が無いから。いや、良い服はいっぱいあるかもしれないが、自分の着たい服が無い。
コムデギャルソンの服が欲しい。でも、まったく同じ服で「コムデギャルソン」というブランドがなければ欲しいと思うだろうか。逆にユニクロの服が欲しいとはならないが、「ユニクロの服でいいか」にはなる。安く手軽に手に入るということに比重が置かれているからだ。
最近のファッションはこの2極化が激しい。安いかブランドか。という2極化。
服の価値というのは本当にそれだけなのか、という事がずっと疑問として残っていてそれを何か払拭したいと思った。自分の「労力」と「時間」を一つの価値として持った服というものを着てみたかった。
まだ完成は先だが、たぶん自分にとっては「良い服」になるような気がする。そのために服を作る。
Dreep
先日、交通事故にあって感じたことなのだけども、病院っていうのはどうしてあんなに憂鬱なデザインに仕上がってしまっているんだろうか。
待合室とか便所とか診療室とか、なんとも日本特有の陰湿な空気につつまれている感じ。自分は病気になりましたという重苦しい空気。
少し構造物を変えるだけでプラス向きに転びそうなのにもったいない。
最近、デザインは単なるビジュアルの美しさではなくて、人に与える影響が重要だと思い出した。病院なんかまさにそうだ。「居心地」ということに全力をかけてデザインしてもいい対象物だろう。臨床心理や社会病理まで掘り下げてデザインしているデザイナーがどれだけいるか。
デザインと聞いてビジュアルの美しさと思い浮かべる人の数が圧倒的に多いのも問題なんだろう。人のデザインに対する意識の引き上げはどうすれば起こせるのか。いろいろ考えさせられた。
ZOOP
ファッションやらWEBやらいろんなデザインの中間点で常にふわふわしている自分には、最高のサイトを見つけた。
fasion ad explorer.com。毎シーズンのテーマ性とブランドの持つ世界観をどのように伝えているのか、というところですごく勉強になる。
Karl Lagerfeldの2010 S/S
sson
フセイン・チャラヤン「ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」に行ってきた。
彼の凄さは語るまでも無く、世界観は改めて感じるまでも無い。
会場はいくつかのコレクションシーズンの紹介で展開していて、そこそこ知っている人には物足りないように思われたかもしれない。
現に自分も映像が多く感じたし、彼のシンボリックな取り組みにスポットを当てすぎているような気がした。未来的なテーマ性というのは、わかりやすいし受けもいいかもしれないけど、彼がそれだけじゃなく単純にファッションデザイナーとして優れているという視点が欠落していたと思う。
何十回も見た2007年、2008年の春夏コレクション。でも、その展示よりも目を引いたのは、2003年春夏の重層的なデザインとかかな…インスタレーションだけど。
どちらにしろフセイン・チャラヤンらしさというところでは未来的なテーマでもリアルクローズよりのテーマでも、期待させられることに間違いは無いんだけども。
Hussein Chalayan Spring 2007 Fashion Show (ful)
ã�¢ã��ã��ã�ã�¼ã��è�� FBK1976. – ã�¤ã�³ã��ã�£ã��ã�³ã��ã�³ã��ã�¦ã�¨ã��å��ç�»ã��
El Salvador
暇を見つけて金沢の21世紀美術館に行ってきた。
ここの美術館の構造が好き。人に無理強いをしないというか、ラリーのように回らなくていい自由感というか。
自分と作品がタイマンを張ってるような感覚の中で、そこから訴えかけてくるものと勝負する。大概の美術館はそんな気持ちで見てるけど、ここはそんなものを一切取り払えるような気がして、単純に興味が沸いたり、アーティストの心理をぼやっと頭に浮かべられたりする。
ちょうど「オラファー・エリアソン」の企画展をしていて、それがとても印象深かった。
彼の肩書きは「色や光を駆使した作品によって、人間の知覚の仕組みに問いかける作品で知られる現代美術作家」とのこと。確かに、無数の色のライトの中で、視覚的な常識をあっさりとひっくり返される体験をたくさんした。
目というものが見えている以上、絶対に抗えない作品の「仕掛け」のようなものにまんまと嵌ってしまう。どんな方法であれ、アートで他者に何かしらの行動規制を与えるような影響力はなかなか生み出せないと思う。
光の残像が、見えないものを生む。狭い空間なのにずっと続いているような感覚に陥る。ある意味で非日常な体験が続いた。
同じく21世紀美術館ではミナ・ペルホネンの展示もあった。こちらは、うってかわってソフトなもの。
最近、テキスタイルに興味が出てきているのでちょうどいいと思い、じっくり観察。新しくもあり、どこか落ち着きも感じる。布が持つ魅力。紙やデジタルに同じデザインのものを写しても、きっと何も感じないだろう。
そうところで自分が表現したいものを通すメディアとは何が最適なのか、まだ見つかっていないけど、考え続けるきっかけにはなったような気がする。
そんな3連休。











